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広島カープ初代監督・石本秀一

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「金はいらない。野球人生の最後を故郷広島の復興のために」石本秀一

 母校広商の監督となった石本秀一は1929年、1930年に夏連覇。石本秀一は1931年には選抜も制し、史上初の春夏連覇を達成した。学生野球屈指の名監督石本秀一は春夏6回の全国大会出場で4度の全国制覇。バントや足技を使い意表をつく「スモールベースボール」の元祖とも言える当時「広商野球」と呼ばれた野球スタイルを確立させた。石本秀一はわずか10年にも満たない高校野球の監督歴だが、石本は戦前の高校野球最高の監督と評価されている。

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 広島商業監督からプロ野球の監督へ

1950年、石本秀一53歳。広島カープが設立されると石本秀一は初代監督に就任した。広島県民は郷土の英雄的存在であった石本秀一が監督となったことを喜び歓迎した。石本秀一は「金はいらない。野球人生の最後を故郷広島の復興のために」と勇んで挑んだ。プロ経験者は1名、入団テストや石本秀一の人脈を使い選手を寄せ集める。石本秀一率いる広島カープは球団運営資金もままならない。キャバレーのステージで歌を歌い生活費を稼ぐ選手などおり火の車。

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 初年度は最下位に沈んだ。石本秀一が指揮をとる広島カープは「解散」が報じられる。石本は後援会の結成を発案し、中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴えた。

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 その後崩壊寸前のカープをなんとか立て直した石本秀一は1953年に退団。

1954-1955年を西鉄、1961-1962年中日でコーチを務め、石本秀一は1966年再びカープに戻りヘッドコーチとなった。

 石本秀一は1972年に野球殿堂入りした。石本秀一は1979年広島の初優勝、初の日本一、1980年の巨人以外ではリーグ初となる連続日本一を見届けた後、1982年11月10日86歳で昇天した。

 石本秀一は中学野球(現在の高校野球)とプロ野球の両方の監督を務めた鬼将だった。低迷していた広島商業で「広商野球」を確立させ、名門校に育て上げると、プロの監督となって現在の阪神タイガースや広島カープの基礎を作り上げた。石本秀一は長いプロ野球の歴史の先駆者として星となった今も輝き続けている。